篤姫ゆかりの地3――西郷隆盛と征韓論・明治六年政変・西南戦争
2008-09-07


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鹿児島で圧倒的な存在感を誇る人物といえば、西郷隆盛である。鹿児島県霧島市・西郷公園の10.5メートルもある大仏みたいな西郷隆盛像にせよ、西郷隆盛を神様として祭った南州神社にせよ、鹿児島における西郷隆盛は神様・仏様並みの扱いだ。今回の「篤姫」ツアーには西郷隆盛が葬られている南州神社・南州墓地・南州顕彰館も組み込まれていた。「南州」とは西郷隆盛の号である。

 私自身は、西郷さんについては、長い間、歴史の授業・教科書で習った内容に加え、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』のイメージが強かった。だから、明治六年、西郷隆盛や江藤新平が下野したのは、征韓論で政府が分裂したことによるもので、西郷さんが野に下り、士族に祭り上げられて西南戦争に至ったと単純に信じていたのだが…異論がいろいろと有るらしいことを、添乗員さんに教えて貰った。西郷隆盛が唱えていたのが征韓論ではなく遣韓論であったことなど…である。

 そこで帰宅してから毛利敏彦『明治六年政変』を読んでみた。毛利氏は明治六年政変について、岩倉使節団の政治的失敗と期間延長という誤算による、留守政府との乖離がなかったら起きなかったであろう、としている。一方、征韓論の方も、李氏朝鮮が明治政府との国交再開を非礼なやり方で断ってきたことから、武力による開国・征韓論を主張する者が出る中で、西郷はむしろ板垣等の過激な意見を諫め、平和的に李氏朝鮮と国交再開及び開国交渉にのぞむべく、自ら使者として朝鮮へ赴こうとしていたといい、公式の場で朝鮮出兵を主張したことはないという。ただ、板垣宛書簡において、板垣の主戦論を抑える為の方便として述べた「暴殺」を望むかのような表現が一人歩きして、征韓論の主唱者とされてしまったというのである。「朝鮮への使節派遣を強力に唱えた西郷の真意は、むしろ交渉によって、朝鮮国との修交を期すことであった」と毛利氏は述べ、そして明治六年の政変については、長州閥と大久保によるクーデターであって、征韓の阻止を目的とするものではなく、「西郷を巻き添えにしてでも反対派を政府から追い出すことを決意して」決行されたものである、という見解を示している。

 他にも、今回旅先で購入した西郷の逸話を集めた西田実『大西郷の逸話』、この本は勝海舟等西郷を個人的に知る人物の回想、手紙等の文献史料、更に広く民間の逸話などを集め、西郷さんの人間像を浮き彫りにしようとしているものだが…数々のエピソードを列挙して、西郷が征韓論の主唱者ではないことを述べている。

 併せて小川原正道『西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦』を読むと、西南戦争では西郷は盟主とされながらも結果として表に出てきていないことなど、意外な事実が分かってきた。

 明治六年政変は、1873年、いまから135年前に起きた出来事である。近代史の範疇であって、多くの人が関わり、近代日本最後の内乱・西南戦争の一因となった明治六年政変について、また政変の発端となった征韓論について、歴史の常識とされている内容に疑問を投げかける余地があったことが意外だったが、またそれが非常に説得力のある内容であったことに驚いた。但し、毛利氏の説は歴史学界で一定の支持を集めたようだが、定説になるには至っていない。

 考えてみれば、西郷隆盛は島津斉彬に見出され、その思想の影響を受けた人物である。島津斉彬は、列強の脅威に対抗しうる日中韓同盟を視野に入れた壮大な日本近代化構想を持っており、慶喜を将軍にして公武親和による中央集権体制への移行をはかり、開国、富国強兵をすすめようとしていた。篤姫の将軍家輿入れもその計画の一環であったはずだ。その西郷が征韓論ではなく、遣韓論を主張したとしたら、それはとても自然であるような気がする。日本の近代史を理解する為に、もう少し関連書を読んでみようと思っている。

読んだ本:毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書、1979)
西田実『大西郷の逸話』(南方新社、2005)

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