日本教科書制度(検定制から国定化)が中国の初期教科書制度に与えた影響――日本の教育法令の歴史11
2008-12-02


検定制度の実施とともに、文部省では伊沢修二を編集局長として、積極的に教科書の編集を始めている。これは民間の教科書に一つの標準を示すことによって、教科書の改善を図ろうとしたものであったという。

 日本の文部省が以上のような意図をもって行った教科書編集は、中国清末の初期の教科書制度に少なからず影響しているようである。清政府も、近代教育導入の初期、1901年12月の時点においては、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局を設置し、内外の専門家を集めて「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集、次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばして民間教科書を奨励し、簡単な検定制度の運用を開始している。

 ところが翌年明治35年・1902年に、日本では学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件が発覚する。「教科書事件」或いは「教科書疑獄事件」と呼ばれる教育史上前例のない大不祥事事件であった。40都道府県で200名以上が摘発され、それは県知事、文部省担当者、府県採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者などであり、116名が有罪判決を受けるという大事件であり、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となったのである。そこで日本政府はかねてから話題とされていた国定制度をこの機会に一挙に実施する。明治36年・1903年4月、小学校令改正により「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」(第三次小学校令第24条)と教科書の国定制度が規定されたのであった。

 上記のような日本の突然の教科書国定化は、新しくできたばかりの中国清政府の教科書制度にも影響を及ぼしたようである。1904年、京師大学堂の編訳書局は廃止されている。更にそれを引き継いで教科書編集を担ったのは、学部(1905年11月に設立)に1906年6月設置された編訳図書局である。京師大学堂の編訳書局廃止から学部設立までの間には空白がある。これは新しい学制 「奏定学堂章程(癸卯学制)」施行によるものかもしれないが、清政府の教科書編纂機関は一時期なかったことになる。

 学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育を普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。教科書国定化を視野に入れていたと見て良いだろう。もっとも、近代教育を導入して30年になる日本と、近代教育制度を導入したばかりの中国では、情況が全く異なっていた。中国では学部の教科書では間に合わず、民間の教科書を検定して採用するしかなかった。この学部教科書は児童心理に即した内容でないことや、管理、印刷が悪い等々批判が絶えなかったようである。

 (なお、中国初期の清政府による教科書編纂事情については、当ブログの記事、2008年10月4日「中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂」及び5日「中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂」をご参照ください。)

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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