2009-02-01
北京大学の前身・京師大学堂が1901年12月に再開したとき、京師大学堂管学大臣・張百熙は正式に日本駐清国公使・内田康哉に対し、京師大学堂仕学館に日本人法学博士、学士各一名、師範館に文学博士、学士各一名の招聘を要望した。このとき、清国側は日本の著名な法学博士(梅謙次郎、一木喜徳郎、織田萬、岡村司、岡田朝太郎→後に招聘、松崎蔵之助、中村進午等)を指名していたが、当時の文部大臣・菊池大麓は東京、京都両帝国大学長との協議を経て、京都帝国大学教授で法学博士の岩谷孫蔵、東京帝国大学教授で文学博士の服部宇之吉をもって招聘に応じた。
もっとも、岩谷孫蔵は1899年から京都帝大法科教授で独逸法講座を担当していたが、服部宇之吉については東京帝大文科助教授でドイツ留学中だったのを電報で呼び戻し、東京帝大文科教授と文学博士を授与して翌月には清国に送り出したのであった。
京師大学堂の速成仕学館は現在で言えば法学部にあたり、岩谷孫蔵はここに総教習として迎えられた。一方、速成師範館は現在で言えば教育学部にあたり、服部宇之吉はここに正教習として迎えられた。(後に総教習)総教習は学部長にあたり、正教習はその下の教授ということになる。両名の当初の待遇の差から見て、清国側は上記の事情を察していたに違いない。
それでも、服部宇之吉は京師大学堂全教習中で最も高い給料600元(月給)を貰っていたというが、その働きは給料に十分見合うものであった。まず、服部宇之吉が速成師範館で担当していたのは、論理学、心理学、日本語の科目である。北京師範大学の心理学部HPには当時の教科書・服部宇之吉選『心理学講義』(1905年初版、1906年再版発行)の写真が掲載され、師範館時代の心理学の授業について簡単な解説がある。これによれば、心理学は1903年から授業科目となったこと、服部宇之吉が師範館で最初に心理学の授業を行った人物でありこれが中国心理学の最初であったと紹介されている。
また服部は仕学館と師範館より34名の学生を選抜し、専攻を指定した上で日本留学へ送り込んでもいる。このとき服部が日本文部省に格別の配慮を願い出たことで、東京第一高等学校がこれらの留学生教育を担当することとなり、予科が設置されたほどだ。京師大学堂はこの時期、日本を頼りにしており、服部宇之吉を通して、希少な専門書や教具、実験用具、実験薬、新聞雑誌等あらゆるものを日本から購入して急場をしのいだらしい。
服部と岩谷の後も、日本からはさまざまな人材が京師大学堂に投入されたが、これも服部を通じて日本に要請したものであったという。京師大学堂の日本人教員の担当科目は、法律、経済、財政、教育学、文学、数学、物理、化学、動植物学、生理学、心理学、鉱物学、歴史学、論理学、美術、そして日本語等、実に広範にわたる。王暁秋氏によれば、日本人教員は25名であった(「国立北京大学20周年記念冊」所載の京師大学堂教職員名簿による)というが、羽根高廣氏のHP所載のエッセー「北京大学創成期に日本人教授」によれば、1902−1915年の外交文書の記録には29名の名前が残っているそうだ。
その服部宇之吉は5年間の教習生活の後、1909年(明治42年)1月に帰国する。服部宇之吉の帰国に際して、清国政府は日本人教習として最高の二等第二宝星を授与、更に「文科進士」の称号を贈り、「異常出力之才」(傑出した働きをした)と功績をたたえている。
人材、器材、あらゆる面について、日本が服部の要請に応じて京師大学堂に全面協力した背景には、中国への影響力を拡大したいという思惑があった。その思惑の実現のためには、服部宇之吉のように日本文部省にも日本教育界にも通じている人材を送り込む必要があったのであり、また、京師大学堂側にもそのような仲介者が必要だった。服部はその役割を十二分に果たしたといえるだろう。
セ記事を書く
セコメントをする