義和団事件後、清国は、日本式教育制度を導入し、多くの日本人教習を招請、日本への留学生派遣など、日本を通して本格的に近代教育を導入した。日本政府も、中国への影響力の拡大を意図して、中国の日本式教育導入に多方面の便宜を図った。こうしてせっかく手にした中国人教育の優位を、日本はなぜ維持できなかったのだろうか。
むろん、大きな要因としては1915年の対華二十一ヶ条要求を契機とする反日・排日ナショナリズムがある。それで日本人教習がいなくなり、中国人の日本留学が激減した説明はつくような気もする。 でも、そればかりではなかったようだ。阿部洋『中国の近代教育と明治日本』は、中国人日本留学の凋落と日本人教習の衰退の視点から、日本が中国人教育の優位を保てなかった理由を様々な事例を挙げて分析している。
それを読みながら考えた。日本人教習について、中には服部宇之吉や巌谷孫蔵のように、中国の近代教育導入にあたり大きな影響力を持ち得たと認められる人物もいた。しかし、なにしろ、最盛期は600人もの日本人教習が中国にいたというから、実際のところ玉石混淆の状態であって、トラブルも少なくなかったようである。もっとも、日本人教習が衰退した一番の原因は、日本への留学生が帰国して日本人教習にかわって各地の学堂の教壇に立つようになったことにある。つまり自国で自給できるようになって、日本人教習は用済みになった、それが大きかったように思う。
中国人留学生の受け入れについても、阿部氏は様々な学校と事例を挙げながら、日本が急激に増えた留学生向けの教育を十分受け入れるだけの受け皿を持たなかったことを論証している。個々には高い志と長期的な視野をもって清国留学生の教育にあたろうとした教育家もいたが、多くは間に合わせに、にわか仕立ての学校において速成教育を行ったため、教育の質の低下は避けられなかった。この状況に加え、日清戦争直後で中国人蔑視の風潮があり、生活環境も低レベルであったから、清国留学生の日本と日本人に対する印象は好ましくなかった。ちなみに、日清戦争前の日本駐在中国公使等の日本の印象はなかなかいいものだったことを考えると、留学生が増えたタイミングも悪かったかもしれない。その上、帰国後試験を行うと、上位を占めるのは決まって欧米留学組であったという。これでは日本留学への評判と信頼性が低くなったのも道理であった。
どうやら当時の日本政府の対中国教育政策は、長期的な視野に立ったものではなかったらしい。日本政府は、もっぱら清国側の要請を受けて日本人教育家を教習として派遣し、要請に応えて援助しただけであった。もしナショナリズムの高揚がなかったとしても、当時の日本政府は積極的に財源を確保して独力で中国に学校を設立して教育事業を行うなど長期に渡って優位性を維持する努力をしなかったのだから、影響力が薄れるのは時間の問題であったろう。日本側にも大きな要因があったのである。
これは同時期のアメリカの中国へのアプローチのあり方と比べると歴然である。これは阿部洋氏の著述で理解した部分である。なぜ日本モデルの後に、アメリカモデルが選ばれたのか、というあたり、突き詰めていくと、それは偶然ではなかったようだ。これは次に回すとしよう。
参考:阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(龍渓書舎、1990年初版、2002年第二版)
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