16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパと中国という二つの世界を繋いだイエズス会と明代の中国に関心があって、いま、平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』(全三冊)を読んでいる。この本の見所は、個人的には二つある。一つは、著者が英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語に通じる語学の達人であり、プロの研究者であって(中国語文献については漢文で読解?)、中国、イタリア、フランス等の貴重な史料(書簡なども)を駆使して、マテオ・リッチの生涯を追っているところ、もう一つは、マテオ・リッチを通して明代末期の中国事情を知ることができるところ、である。
それにしても、この時期に中国に入った宣教師は、アヘン戦争以降の宣教師とは全く違う。まず、中国に融け込むための地道な努力をしているところが違う。
例えば服装等外見の工夫。最初は日本でのイエズス会の伝道方法を参考に、仏教の僧服で中国に入っている。ところがしばらくして、中国では僧侶の社会的地位は必ずしも高くないことに気づく。このとき、中国の友人のアドバイスを得て儒官の服に換え、身分の高い人に会うための絹の服を作り、会の許可を得て髭と髪を伸ばすなど、外見を変えている。
次に贈り物の工夫。彼らは当地の風俗に従って、贈り物には十分な返礼をし、また高官等に挨拶に出向く際には珍しい贈り物をするよう心がけている。贈り物の内容は、ヨーロッパの自然科学の知識を生かした、世界地図や地球儀、日時計や砂時計等、時にはリッチ自らが西洋の思想を紹介した本を手作りしてもいる。しかもこの世界地図には中国を中心に描くなど、細かい心配り(もちろんそればかりではないが)もしていた。
実際にマテオ・リッチが中国人に認められたきっかけは、ヨーロッパの数学や天文学などの自然科学の知識や記憶術、西洋思想の紹介等であったにせよ、彼らの外見や中国人の習慣にしたがった贈り物などが果たした役割は大きい。リッチが北京在住を許されたのも、もとはといえば、贈り物リストに時計があったことを、政務嫌いの万暦帝が思い出して召し出したおかげなのだから。
長い歳月をかけて、地道に一歩一歩中国人に受け入れられ、中国に融け込んでいった努力、一緒に中国へ入った仲間が次々に病気で亡くなって一人になっても孤独に耐えながら、目的遂げるまで奮闘を続けた精神力は並大抵ではない。それを支えたのは、やはりキリスト教を布教する足場を中国に作るという信念であったのだろう。
読んでいる本:平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』(東洋文庫、1969)
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