『雍正帝』
2008-03-06


 大阪府の新知事橋下氏が同和問題に言及した記事を先日毎日新聞で読んで、しばらく前に読んだ宮崎市定氏の『雍正帝』を思い出して読み返した。

 1722年に即位した雍正帝は中国の清朝の皇帝である。雍正帝は、女真族を統一して「大金」を名乗った太祖ヌルハチから数えれば5代目、入関を果たし北京に都を移して中原の主となった世祖順治帝から数えれば3代目、国家安定の重要な時期の皇帝の一人である。時代は日本でいえば江戸時代中期徳川吉宗の治世にあたる。

 父親の康煕帝と息子の乾隆帝という「名君」に挟まれ、三祖一宗にも数えられていないため、あまり目立たない存在だが、その治世において、賎民の大解放を行った皇帝である。

 宮崎市定氏の『雍正帝』によれば、この皇帝こそ、数千年の中国歴代王朝の皇帝の中で、中国的な独裁君主の理想像を追求しくした皇帝、であるらしい。在位中の13年間は常に勤勉に政務に没頭し、皇帝職を全うした。賎民の解放もこの独裁君主ならではの思想に基づいて行われたという。

 「雍正帝にとっては特権階級などの存在はそもそも不合理なので、特権とはただ天子一人が持っている独裁権のことで、天子以外の万民は全く平等の価値しかもたない。だから彼は地方の賎民の解放を行った。山西省の楽戸(がくこ)、浙江省の惰民(だみん)、九姓漁戸(きゅうせいぎょこ)、安徽省の世僕(せいぼく)などの賎民階級は以後良民と差別無く待遇されるようになった。」(177頁)

 その政治方法は、臣下から天子の元に直接届く奏摺を頻繁に交換することにより中国全土に目を行き渡らせるという奏摺政治であり、前代未聞の方法であった。これは同時に地方へ密偵を縦横に放って監視の目を張り巡らしたため、恐怖政治の一面もあった。しかし、それゆえに治世中の13年間は戦争で親征するというような派手派手しいことは一度もなく、朝早くから働き、夜は遅くまで皇宮内に造った安普請の事務所のようなところでひたすら数十通に及ぶ奏摺に返事を書き続けた。また贅沢を固く戒めつつも、天災の際には歳出を惜しまなかったと言われる。皇帝個人の贅沢が当然であったこの時代に、雍正帝はまったく贅沢をしようとはせず、国のお金を国の為に使ったおかげで国庫は潤ったのである。雍正帝の治世の蓄えがあってこそ、次代皇帝乾隆帝の盛世があった。

 時代は民主主義に変わっても、雍正帝の指導者としての資質、国と人民の為に尽くす精勤ぶりや賎民の解放等の善政、節制ぶりは、後の世の指導者にも参考になるところであるように思われる。

[読書日記]

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