2008-08-15
1836年8月、広州アメリカ商館に、ドイツ人宣教師カール・ギュツラフ等により「モリソン教育協会(Morrison Education Society)」が設立された。カール・ギャツラフは、日本人漂流民3名の協力を得て、世界初の和訳聖書『約翰福音之傳』を翻訳した人物で、モリソンと同じロンドン伝道会(London Missionary Society)から派遣された宣教師である。
協会設立に先立つこと2年、1834年にはギャツラフ夫人がマカオで塾を開いていた。後に有名になる容〓は7歳で父親に連れられてこの塾に入った。容〓を含め、生徒は少なく、乞食だった少年一名を含むなど、いずれも貧しい家庭の子供だったようである。1939年に入り中英関係が緊張したため、塾は閉鎖、11月に独立したモリソン記念学校(馬礼遜学堂)が歴史の舞台に登場する。校長兼教師を務めたのは、アメリカ人宣教師ブラウン(Samuel Robbins Brown)。開学当初、学生は6名であった(塾の学生も復学)。ブラウンは後に来日、新約聖書の翻訳に精力を傾け、ブラウン塾を開いている。(ブラウン塾は1877年・明治10年に東京築地に移り、「東京一致神学校」となり、やがて白金の「明治学院」へとつながっていった)
アヘン戦争でイギリスが勝利した後、南京条約により香港島がイギリスに永久割譲されたことから、モリソン記念学校は1842年11月、マカオから香港に移る。学校と共に移った学生は11名、1844年には32名に増えていたらしい。学生はその学習レベルによって、四つのクラスに分けられ、授業は中文科と、英文科があった。中文科の授業は中国人が担当し、教科には「四書」「易経」「詩経」「書経」等があり、英語の授業はイギリス人かアメリカ人が担当し、教科には「天文学」「歴史」「地理」「算術」「代数」「幾何」「初等機械学」「生理学」「化学」「音楽「作文」等があったという。
モリソン記念学校は中国近代で最も早く留学生をアメリカに送ったことでも知られている。実際には留学生を送ったのではなく、校長のブラウンが妻の病気の為に帰国することになった際、中国人学生にアメリカ文化への認識を深めさせようと、香港のキリスト教教会に要請して二年分の奨学金を得て、容〓と黄寛、黄勝の三名の中国人学生を伴い帰国したものである。ブラウンが1847年に帰国、1850年にモリソン記念学校は閉校となった。ブラウンは、三人をマサチューセッツ州の高校で学ばせ、大学入学の準備をさせた。これが中国人初のアメリカ留学生となった。
この内、黄勝は病気で一年後に帰国したが、香港で印刷を学び英華書院で印刷の監督、編集、翻訳、通訳で活躍した。後に香港の主要紙となる『中外新報』(香港初の完全中国語紙、1858年創刊)、『華字日報』(1872年)を創刊、更に中華印務総局を創設するなど、香港ジャーナリズムの礎を築いた。一時は上海同文館で教授として教鞭をとったこともあり、容〓らの依頼を受けて、第二陣の児童留学生30名を送り込んでもいる。
黄寛は宣教師のすすめで、イギリスのエディンバラ大学に入学、医学の博士号を取得後帰国、広州の病院で医師として働き、西洋医学教育に従事した。
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