清末に起きた反キリスト教事件「天津教案」とは?
2009-06-18


清末の中国では、反キリスト教事件が度々起きている。義和団事件の義和拳も元はと言えば反キリスト教運動が統合したものだ。そして先に触れた「天津教案」もそのひとつで、この時期の中国民衆の教会に対する反感の実態がわかる悲惨な事件である。
 
《背景》
 1870年5月、天津では子供の失踪が相次ぎ、さらに6月疫病流行により育英堂(孤児院)で3、40人の子供が病死した。このことから修道女が子供を殺して薬の材料にしているという噂が広まった。

《経過》
 6月20日に誘拐犯人がつかまり、教会が共犯であるとの嘘の供述をしたため、天津地県・劉傑が育嬰堂を捜査、嫌疑が晴れて、神父に謝罪し三口通商大臣の崇厚が善後策の協議に入った。しかしこの時すでに数千の群衆が教会を取り囲み、口論となり、やがてレンガでの殴り合いとなった。フランスの駐天津領事のアンリ・フォンタニールは崇厚に派兵して鎮圧するように要求したが、満足いく回答を得られなかった。口論になり、アンリ・フォンタニールが発砲して劉傑の従者を殺害、これに憤慨した民衆がアンリ・フォンタニールと秘書を殺害、さらに10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30名以上の中国人信者を殺戮し、フランス領事館とフランスやイギリスの教会を焼き討ちした。
 
《事件後》
   6月24日、フランスを中心とした7ヶ国艦隊が天津に到着し、総理各国事務衙門に抗議した。フランスは最初は清に対し責任のある役人を処刑するように主張した。清朝は直隷総督の曽国藩を調査と交渉のために派遣したが、当時の朝廷は戦争もやむを得ずという強硬論が多数を占め、情勢は緊迫した。しかし曽国藩はフランスとの戦争を望まず、まずイギリス・アメリカ・ロシアとの賠償金交渉をまとめて、最後にフランスとの交渉にあたった。調査の結果、育嬰堂では幼児の誘拐・傷害はなかったと確認し、馬宏亮・崔福生・馮〓子ら騒動の首謀者18名を処刑し、25名を流刑にし、天津知府張光藻と知県劉傑を免職して、銀46万両を外国人への損害賠償として支払い、崇厚を謝罪使としてフランスに派遣した。当時フランスは普仏戦争の発生で東洋に目を向ける余裕がなく、謝罪は受け入れられた。
 
《天津教案事後処理とアメリカへの官費留学生派遣実現》
 それにしても歴史の不思議は、「天津教案」の事後処理をきっかけに、アメリカへの大規模な官費留学生派遣計画が実現したことである。容〓『西学東漸記』によれば、容〓はこのとき通訳としてよばれた機会をとらえ、曽国藩や丁日昌が勅命により事後処理の外交交渉のため天津に滞在している期間中、丁日昌に以前頓挫した官費留学生派遣計画の根回しを促し、ついに派遣されていた官僚全員による連名での上奏にこぎつけたのであった。
 
参考:ウィキペディア(Wikipedia)
 容〓・著/百瀬弘・訳注/坂野正高・解説『西学東漸記』(東洋文庫、平凡社、1969年)

 
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