アン・サリバン先生を考える
2009-06-30


ヘレン・ケラー関連の本はどれも、アン・サリバン先生を「希に見る素晴らしい教育者」「天才教育者」と絶賛している。もちろん、私もそう思う。ヘレンを育て上げた献身の物語は誰もが感動せずにはいられない。でも、一方で彼女がなぜそれほどに素晴らしい教育者になることができたのか、ということを不思議にも思う。なぜなら、アン・サリバン先生は、その経歴を見る限り、教育者として特別の訓練を受けたわけでもなく、家庭の温かささえ知らずに育ったと思われるからである。ウィキペディア(Wikipedia)と『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』の解説から、アン・サリバンのヘレンと会うまでの経歴を追ってみよう。
 
 アン・サリバンは、1866年4月14日にマサチューセッツ州ヒルで、アイルランド移民の娘として生まれる。3歳の時に目の病気トラコーマになり、5歳の時にはほとんど目が見えなくなったと言われる。9歳の時に母親が亡くなり、父親がアルコール依存症で家族を養う能力がなかったことから、結核によって体が不自由になった弟ジミーとともに親戚の間を転々とし、10歳になる前に救貧院に送られる。弟はこの救貧院で亡くなり、アン自身も目の病気が悪化して盲目となる。鬱状態になって、食事を拒み、死を願ったアン・サリバンだったが、病院の看護婦にキリスト教の教えを説かれて、徐々に心を開いていったという。1876年には緊張型精神分裂病で精神病棟に入ったというから、弟の死と完全に盲目となったことは、彼女にとって相当の心の打撃だったのだろう。
 
 アン・サリバンは14歳の時にパーキンス盲学校に入学し、「救貧院」からの脱出を果たす。盲学校にいる間に訓練と数度の手術の結果、ある程度視力を回復した。ただし、光に弱く常時サングラスをかけていたという。在学中には、視覚・聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと友人になったことも、後のヘレンの教育に生かされたといわれる。1886年、20歳のとき、最優秀の成績で盲学校を卒業するが、就職先が見つからなかった。そのアン・サリバンに「目と耳が不自由な子供の家庭教師」の声がかかったのである。この子供こそ、ヘレン・ケラーだった。
 
 上記の経歴を見てもわかるように、アン・サリバンの少女時代は、家庭の温かみを味わうどころか、貧困、家族の死と家庭の崩壊、失明、鬱、精神分裂症…これほどにも幸せとは縁遠いものであったのだ。
 
 そんな彼女がなぜヘレンを救うことが出来たのだろう。温かい家庭生活を知らない彼女にとって、裕福で温かなケラー家の人々との生活は、初めて知った家庭の味だったに違いない。サリバン先生は手紙の中でこう言っている。「自分が世の中の役に立っているとか、誰かに必要とされていると感じることは大変なことです。ヘレンはほとんどすべての点で私を頼りにしてくれますが、このことが私を強くし喜ばせてくれます。」人は誰かに必要とされるということを必要としている。アン・サリバンにとってヘレンは、弟を失って以来はじめての、本当に彼女を必要としている存在だったのではないか。
 
 それにしても、サリバン先生が着任したばかりのころは、非常に厳しかったことが知られている。もしかしたら、アン・サリバンがヘレンの家庭教師になった当初は、まだ人間的には大きな問題を沢山抱えた状態だったのかもしれない。ヘレンを闇からすくい上げるその過程は、彼女自身をも救う過程であったのかもしれない。そして、ヘレンと共に多くのことを学ぶ中で、彼女自身も高い教養を身につけ、豊かな人間性を獲得し、教育者として磨かれていったのかもしれない、と私は想像するのである。
 
参考:ウィキペディア(Wikipedia)「アン・サリバン」
ヘレン・ケラー・著/小倉慶郎・訳『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)
アン・サリバン・著、槇恭子・訳『ヘレン・ケラーはどう教育されたか ――サリバン先生の記録――』(明治図書出版、1973)。 
 

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