ガリレオとマテオ・リッチの接点
2009-09-04


アメリカの雑誌『ライフ』が発表した「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」には、400年ほど前の二人のイタリア人の名前がある。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei,1564-1642)と、マテオ・リッチ(中国名:利瑪竇、Matteo Ricci,1552-1610)である。一人はヨーロッパ近代科学の地平を開き、もう一人はルネサンス期ヨーロッパの新知識を中国に伝える役割を果たした。

 同じ時代に生きたとはいえ、活躍した場所が全く違うこの二人が共通の人物と関わりがあったことを最近知った。それは、イエズス会士にして、当代随一の数学者で天文学者、クリストファー・クラヴィウス(Chiristopher Clavius,1538-1612)である。

 ガリレオとクラヴィウスの関係は、よく知られている。クラヴィウスは学界の重鎮としてガリレオと親交があった。若いガリレオの才能を認めてピサ大学に推薦し、望遠鏡の観測結果を携えて訪ねた時もその説が理にかなっていることを評価している。自身は天動説を支持していたが、その矛盾についても認識理解していた見識の高い大学者であり、ガリレオが生涯尊敬していた人物である。

 一方、マテオ・リッチとクラヴィウスの関係は『マッテオ・リッチ』を読んで初めて知った。リッチはローマ学院時代の数学教授だったクラヴィウスの教え子であった。二人の関係は東西文化交流史上、非常に重要な成果を生む。中国に渡って北京に定住したリッチは、かつての恩師に天文学や数学の著書を送ってくれるように求め、クラヴィウスはそれに応えて教え子に自書を送っていた。リッチがそれを漢訳することで、ヨーロッパの数学、天文学の優秀性が中国知識人に徐々に認識されるようになり、クラヴィウスはそれらの漢訳書を通じて東アジアに盛名をはせた。そしてやがて明朝の宮廷では天象に合わない『大統暦』に替え、ヨーロッパ暦法による暦を編纂すべきであるという主張が台頭、崇禎年間に編纂された『崇禎暦書』、清朝順治2年施行の『時憲暦』へとつながっていく。

 クラヴィウスは宗教人ではあっても、学者としての態度でガリレオの成長を学者としてみまもった気がする。その彼がリッチという教え子を持ったことにより、東西文化接触の象徴的な偉業に貢献したのは、嬉しいことである。なお、クラヴィオスが教え子マテオ・リッチに献呈した本は、20世紀のはじめまで、北京に残っていたそうだ。いまもどこかにあるのだろうか。

参考:青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』岩波新書
平川祐弘『マッテオ・リッチ』平凡社・東洋文庫

↓応援クリックお願いします(^^)

 [LINK] (禺画像])
[読書日記]

コメント(全4件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット